荒川アンダーザブリッジがシャフトアニメかどうかという話

時々荒川アンダーザブリッジディオメディアに丸投げしていてシャフトは全然作ってないという言われ方をしていてなるほどたしかにそうかもなぁと思った。荒川は演出的に特化したり尖っていると思う回がないのでEDクレジットはノーチェックだったのでちょっと調べてみたが、確かに交互にディオメディアグロス先となっていてシャフト制作時にもシルバーリンクなどが協力しているようだ。
でもそもそもシャフトアニメって何という感じ。グロス先があるからシャフトアニメじゃないとなったらひだまりスケッチだって半分ぐらいシャフトアニメじゃないってことなのか?そうではなくてシャフトアニメという言葉は新房監督がシャフトを通じて作ってきたイメージのことではないのか。独特の色遣い、平面的な構図、動作ではなくカットごとの変化での動きなどなど。そしてその観点から言えば荒川アンダーザブリッジは十分シャフトアニメだろう。
でもならなぜなるほどと思ったかと言うと、世間的なシャフトアニメという定義かどうかはわからないが、個人的にシャフト制作に期待していたものに各話毎の出来のばらつきというものがあるからだ。月詠からひだまり無印までのシャフトアニメには、尾石達也大沼心といったような別ベクトルの才能がぶつかりあっていて出来ていた。そのため同じ作品のはずなのにまるで別物のような視聴感覚に襲われた。しかしシャフトという会社が有名になってからは急激に制作本数が増え、次第に関わる人数も増加した。独特の手法は言語化しやすい部分だけがフォーマット化し、力量のあるスタッフは各作品ごとに配置されるようになった。結果アニメ一作品毎に統一感は生まれたが、意表をつかれるようなことがなくなってしまった。これが最近のシャフトアニメの物足りなさを生んでいる。
そのような作りになった要因は制作本数の増大も原因であるが、宮本幸裕という名前も無関係ではない。制作統括としては俗・懺絶望先生まりあほりっくに該当するがこれらの作品に共通する部分はどれも演出の統一感はあるが、個性的な作りがほとんど見出せない。そういう意味で荒川アンダーザブリッジはとても宮本幸裕的で、昨今のシャフトアニメと言えるだろう。