今さらだからこそ作画崩壊というものについてもう一度考えるべき

鉄腕バーディー DECODE:02の第7話は作画崩壊か否かについて、ネットでは今でも時々語られるぐらい荒れました。
アニメの感想を書いている身としてはこの問題について何かしら言及しようとは思っていましたが、期間を開けることで冷静に見れることもあります(自分の地域は1週ぐらい遅いのも原因)。

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まず"作画崩壊"の定義は"制作の遅延による破たん"とします。
そうした場合、今回バーディーが作画崩壊だったかについては判断できません。ラフだった、演出だった、修正されれば確定といったことを言われますが、アニメ制作者(&製作者)は視聴者の反応によって回答を合わせるのが当たり前であることを念頭に入れなければならないと思います。

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最近よく用いられている"作画崩壊"は"キャラ表に合ってない、見ていると違和感を感じる、受け付けない"といった場合に用いられるのですが、そもそも作画が酷いからといってなぜここまで騒がれてしまうのでしょうか。
アニメは作画以外にも脚本や演出といったものでも構成されており、本来「今回の話は作画酷いなぁ」といっただけの話ですむはずです。脚本が酷い、演出が酷いといった感想は見ますが、そこまで荒れることはほとんどないと思います。
"作画崩壊"だけが騒ぎに挙がりやすい理由はいくつかあると思います。
簡単に思いついたものでは作画は視覚的なものであり、誰にとっても語りやすいものだからです。脚本や演出が自分にとって受け入れられないと反応するには作品を考えた上で見なければいけませんが、作画は見るだけで判断できてしまうからです。
また言語の定義がぶれていることは大きな原因です。昔と今の"作画崩壊"の定義がぶれていることによって意見がすれ違い、まともな議論となっていないところが見られます。
そして一番の問題は「作画崩壊だった」という人に対し、「これは動いているし、すごい作画じゃないか」という的外れな意見を、そんなこともわからないのかというような態度で反論することがまかり通っていることです。
"作画崩壊"と感じた視聴者にとって、その反論は全くの無駄で・無意味で・無価値です。なぜならば、例え何を言われたとしても、自分が到底受け付けないほどの違和感を感じた作画に対して"作画崩壊"という言葉を用いるからです。

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最近用いられている"作画崩壊"とは一視聴者にとって(アニメという複合コンテンツの中の一部である)作画がたまたま受け付けなかっただけのことであり、そのことで大きく取り上げること、騒がれることがそもそも間違いです。もしくは、今回の話数以外に、しかも作画だけに限らず様々な観点でアニメが取り上げられ、騒がれるようになっていくことのほうがアニメに関わる全てのものにとってよりよいのかもしれませんが。

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あとがき
TVアニメの作品性について前提を述べないと少しぼやけたかも・・・今度まとめるかも、といってまとめた試しがないか